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煩悩

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一般的に煩悩の数は108つあると言われていますが、その煩悩とは。。。

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仏教は善と悪ですね、善悪はもう既に超越してしまって、その上にあるものが、淨汚(じょうえ)。
善悪は、これは道徳ですね。淨汚とは、心の清い心と汚れた心ですね。善は勿論清い心ですけれども然しながらその同じ善でもですね、喜んで善いことをするという善と、嫌だけれども仕方が無いからするという善いことがございますよね。

嫌嫌でもしたらそれは善いことだから善ではありますけれども、仏教ではその嫌嫌というのではなくて、善いことをするのが喜びになると、そういう境地ですね。

善いことをしたいんだけれどもなかなかし難い、仕方が無いからやっぱり善いことをしましょうというふうに抵抗を感じながら善いことをするというのは、なにがそうさせるのかいいますと、仏教ではそれを煩悩といいます。

煩悩というのは自分を守ると。自分というのが根本になってくるのですね。自分というのが無かったら煩悩は無いんです。だから仏教は無我になれ、無我になれと言いますにはそこなんです。
私たちはどうしても「我」ということから離れることが出来ない。自分が可愛い。仏教には我愛というのがありますね。

我愛。我癡。我慢。我見。これは根本煩悩となってます。これは四大煩悩とも言いますが、順序はどうでもいいのですが、皆我というのが付いてます。

私たちは自分が偉く見せたい。自分は他人より優れてるんだ。と、いうふうに我、我、我となりますね。それで、なになにをしたい、なになにをしたい、見たい、食べたい、行きたいと、そういう希望というのは皆それは自分では意識してないけど自分が可愛いんですわね。自分が満足したい。ということで、仏教の煩悩の根本は「我」ということです。だからお釈迦様は無我になれ、無我になれとおっしゃるわけですよね。ところが、これがなかなか無我になれといったって無我になれるものじゃない。これはやっぱり禅をやりませんと。

極楽往生する方は別ですよ。極楽へ行ったらもう自然と、無我の教えも聴き、修行もいろいろさせて頂けるわけですから自然に無我になっていくわけです。

現実の話しとすれば、我々は、この世は汚土(えど)というんですよね、仏教では。極楽は浄土で、この世は汚土と言います。煩悩の汚れた世界だというんです。

結局、我々は自分というものがあるがために、欲するか欲しないかも知らず知らずに自分のために、ああしたい、こうしたいと、善と悪はそこから生まれてくるわけです。結局その我が可愛いからですね。