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小悪を軽んじて罪無しとすること勿れ

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「善男子、誓えば良医の病を知りて薬を説くに病者の服せざるは医の咎(とが)に非
ず。」

小悪を軽んじて罪無しとすること勿れ 11 / 11 ページ

「善男子、誓えば良医の病を知りて薬を説くに病者の服せざるは医の咎(とが)に非
ず。」
この一番最初の文句は仏遺教経(ぶつゆいぎょうきょう)というお釈迦様のご遺言の中
に出てくるんですね。
文句は多少違いますが、意味は同じです。
このお経は遺言経にもあれな涅槃経にもあるし阿含経にもあるしあちらこちらにありま
すね。
それはこの仏教は、お医者さんとか、薬というのを非常に尊重するわけですね。
現在の宗教の中に、お医者さんとか薬を遠ざける宗教がありますが、仏教はそうじゃな
いですね。
病気になればお医者さんに診ていただくし、薬も飲まないといかんと説いています。
その例えですね。立派なお医者さんとは、昔はお医者さんが薬を製造したんですから。
この病気にはこれだな、この病気にはこの薬だなと思って、薬を調合して病人に飲ま
す。
ところが、相手の病人さんがお医者さんの言うことを聞かずに、こんなものを飲んでも
効かへんわということで薬を飲まない、ということもありますけれども、それはもうお
医者さんの責任じゃないですね。
本人が悪いというお経ですね。「服すと服さざるは医の咎に非ず」と。
私は法を説くけれども、受け入れないのは、それはもう如来の責任ではないと。
説いてもああだぞ、こうだぞと言うていくら説いても聞かない。
と、いうような場合ですね。
善男子よ、と。善男善女とありますね、その男子をいうわけです。

「善男子、誓えば良医の病を知りて薬を説くに病者の服せざるは医の咎(とが)に非
ず。
善男子、若し施主有りて其の所有(お金とか財産ですね)を以って一切の人に施さんに
受けざるは施主の咎に非ず。
(供養のために布施をしたいんですと、いう人があっても、それは受けないのは、それ
は施主の責任ではないということですね)
善男子、 えば幽冥の日出づれば明かなるに盲いたる者の道を見ざるは日の咎に非ず。
(真っ暗なところでですね、いよいよ夜が明けて日が出てくる。すると普通なら誰でも
見えるんですが、ところが目の悪い人には見えない。それはその人が悪いのであってお
日さんが悪いんじゃない。と、それと同じなんだというのですね。)

 


善男子、恒河の水の能く渇を除くも渇者の飲まざるは水の咎に非ず。
(恒河のいうのはガンジス河のことですね。河は水ですから渇きを潤しますが、その水
を飲まない。飲まないのは恒河が悪いんじゃなくて、飲まないのが悪いということです
ね)

  


善男子、 譬ば大地の普(あまね)く果実を生ずるも農夫の種えざるは大地の咎に非
ず。
(地面というのは種を蒔けば生えてくる。ところが、その農夫は種を蒔かない。種を蒔
かないから収穫が無い。それは大地の責任じゃない、農夫の責任だということです。)
如来は衆生の為に普く法を説くもこれを受けざるは、如来の咎に非ず。
(お釈迦様は、人々の為に、分け隔て無く法を説いているんだけれども、それを聞く人
もあるが、聞かない人もある。聞かないのはお釈迦様の責任ではないということで
す。)」

 


ですから法を求める者の求め方に責任があるんだということですね。
お釈迦様の法は完璧でしょ、それを聞かないというのはお釈迦様の責任ではないです
ね。
これは私が言うてるんじゃなくて、お釈迦様がおっしゃってるんですから、私は受け売
りをしてるだけですが、法は聞く人に責任があるということですね。
仏様とか、阿羅漢様とかのお説教は完璧ですよね。


「六因有りて三悪道に没して出づる事能わず。一には悪心熾盛(ししょう)の故に」
熾盛というのは、燃え盛ってる火のことですね。